マンガ評論のためのメモ2

前回の続きで,「マンガの絵とその伝えるもの」の中の「作家個人のスタイル(絵柄)」についてメモしておこう.

今回述べたいことは,"同程度のリアリティでも絵柄の違いによって受けての感じ方が変わる"ということ.

書いていて思ったが,根本的には,その人の描く紙面全体に現れる絵画的特長全てがスタイルといえるので,前回述べた絵のリアリティそのものもスタイルに含まれる.前回述べたことはスタイルの中のリアリティについて考えた場合のことで,今回はその同程度のリアリティの中での違い,という視野を絞った話になる.
つまりは,絵のディテールとしてリアルかリアルでないかということを超えた先の議論になると言えるかもしれない.

同程度のリアリティの中での差異.これは一つには,腺の描き方にも現れる.(他にはコマ割,アングル,構図とかの話になると思うが今は保留)
例えば人を描いた時に,腺の幅が変わらない単調な腺なのか,抑揚のある腺(線の幅が変わる)かとか.
抑揚があるにしても,いかにもフリーハンド的というか偶然性を感じる腺(いい表現が思いつかない),
腺の幅は変わるけれども意図してやっているある意味,機械的というかそれこそスタイルとしてやっている(イメージ的には藤崎竜とか)ものとがある.
腺の描き方による伝わり方は,例えば柔らかい,硬い(硬質的,無機的)とかがあり,その中でも個々人のマンガ家の腺によってそれこそ十人十色だ.(柔らかい腺のほうが個人のクセが顕著に現れると思うが.)


また,ある作品について,違うマンガ家に描かせた場合の代替可能性について検証すると少し話を進められる気がする.(まだ,考えがまとまってないけど)

前回触れた,絵のリアリティにおいてまったく異なる作家同士では根本的に違ったものになることは間違いないので,リアリティが近い作家同士の場合どうなるかということについて考えると,そこに作家の個性,そして個性とは何かということが見えてくるのではないだろうか.
大友克洋が「気分はもう戦争」(原作:矢作俊彦)を描き,藤原カムイが「気分はもう戦争2.1」(同原作)を描いたことと,谷口ジロー版「餓狼伝」(原作:夢枕獏) と板垣恵介版「餓狼伝」(同原作)を比べることや,大友克洋原作で他のマンガ家が描いた作品などを比較することで面白いことが分かるのではないだろうか.
がしかし,板垣恵介の「餓狼伝」以外持っているのに全部実家だ.一人暮らしはあまりものを溜め込んでおけないのがきつい.
まぁ記憶を頼りに言えるだけ言っておこう.「気分はもう戦争」と「気分はもう戦争2.1」の伝わるものの差は,「餓狼伝」に比べれば小さいといえる,多分.
表す内容も「気分はもう戦争」と「餓狼伝」では異なるから難しいが,絵画的リアリティの高い作品は現実に近いという意味で,(語弊があるかもしれないが)互いに均質なものになりうるためではないか.

つまりは,言ってみれば当たり前だが,絵画的スタイルが近いもの同士は,互いに代替可能性が高く,そうでないものは低い.
また,絵画的リアリティの面でカテゴライズしづらい,いわゆるサブカル系はオリジナリティ勝負みたいなところがあるので,他の人と代替可能性が低い.

言い換えると,それぞれのマンガは,その絵画的スタイルであるからそのマンガになっているのであり,マンガの絵画的スタイルとマンガの世界観は不可分な関係である.
マンガの世界観を形作る上で絵画的スタイルは重要な要素なのだ.前回のリアリティの所でも述べたが,マンガ家はマンガを描くときに,意識的にしろ無意識的にしろ,絵のスタイルを選択していて,それによって表しうる世界観が規定されることは間違いないのではないだろうか.

考えながら書いていたりするので,まとまりがないけど,メモだからまぁいいことにして,今回は一旦このへんでまとめよう.

まとめ
・リアリティ(絵画的写実性)だけでなく腺の描き方などでも伝わり方が変わってくる.
・絵画的スタイルが近い物同士は絵を取り換えたとしても作品として伝わることに差異が出づらい.
・絵画的スタイルはマンガの世界観を規定する要素の一つである.

このくらいの話になると,かなり細かい描き方について言及しなくてはいけなくなりそうなので,自分でもマンガを描いてみるべきだろう.少なくともペンを使って1ページでもいいから描き方を体験してみたいと思う.