「セッション」を観て 町山智浩さんと菊池成孔さんの批評を参考に &宇多丸さんも

映画「セッション」を観終わった直後は、ポカーンという感じだった。
とりあえず勢い、迫力があり、ハラハラしつつ畳みかけるようにエンディングを迎えた。
評判のような絶賛したくなるような感動は覚えなかった。

まず第一にはフレッチャー先生が人格破綻者で、意味が分からず、どこまで主人公(や他の生徒)の成長を思っていたのか、
または挫折者がどれだけ生まれようとも、天才を育てたかいと思っていたのかよく分からない。
批評を見ると、フレッチャーは悪役で、生徒を潰そうとしていたというような書かれ方をしていて、それだけの思いしかなくて天才を育てたいということすら
嘘なのか? とイマイチ釈然としなかった。
なぜ自分は感動しなかったのだろう?なにか観点上で間違い(主観的な問題なので間違いというものは厳密にはないのだが)があったのか、言い換えると「セッション」を楽しめる見方ってのが何かあるんだろうか?ということを疑問に思った。

で、セッションに関して話題?になっている町山智浩さんと菊池成孔さんのやり取りを読んでみた。
(下記の4点のブログ)


「セッション!(正規完成稿)〜<パンチドランク・ラヴ(レス)>に打ちのめされる、「危険ドラッグ」を貪る人々〜」
http://www.kikuchinaruyoshi.net/2015/04/08/%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E6%AD%A3%E8%A6%8F%E5%AE%8C%E6%88%90%E7%A8%BF/

菊地成孔先生の『セッション』批判について
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20150417

町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意)
http://www.kikuchinaruyoshi.net/2015/04/19/%E7%94%BA%E5%B1%B1%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%AB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%81%95%E3%81%9B%E3%81%A6%E9%A0%82%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%99-%E9%95%B7%E6%96%87%E6%B3%A8%E6%84%8F/

『セッション』菊地成孔さんのアンサーへの返信
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20150422

で、これらを読んで、自分はなぜあまり「セッション」に感動しなかったのか分かった気がした。
つまり、最後のシーンで、実はフレッチャーも主人公も救われてはいない=愛がない、ということ。
主人公がフレッチャーに自分を認めさせて、復讐・反撃に成功したということで、オチという形にはなっているが、「もっと感動的でカタルシスのある一般的な映画」(町山さんのブログより)になっていない。
自分はそこに引っかかったのかなーと。

その後、宇多丸さんの映画批評を聞いた。
https://www.youtube.com/watch?v=ZdAJoBsPoz4
で、これまた納得。そもそも「セッション」は感動物ではなく、主人公はダークサイド(何を投げ打ってでも、人でなしになってでも、偉大になるというような価値観に捕らわれる)に落ちるというバッドエンド物なのだということ。
ここが自分は間違っていたんだなーと。先生と生徒の話だからか、ついなんとなくいい話の方向にいくんではなかろうかと先入観を持ってしまっていたんだよなぁ。
宇多丸さんは何も難しいところはないと言っていて、たしかにそうなんだけど、自分みたいな人間も少なくないではないと思いますよ、多分...



蛇足
論争をしたがって白黒つけたがる人も少なくないようだけど、別に、絶賛する側の人が間違っているとかではなくて、やはり主観的・好みの話でしかないと思う。
なんで相手の言わんとするところを理解しようとして、相手と自分(の価値観、物の見方)が違うってことを理解しようとしない人が多いんだろう。
(町山、菊池両氏のことではなく一般論)