山登りについての考察

私は最近登山に興味がある.
といってもそう山には行っていないし,えらそうに登山が好きですといえるほどではないが.

少し前に,同じように登山に興味を持っている友人と話をした.
彼は,登山をするときエクスタシーのようなものを感じるという話を私との共通の友人に話したら,あまり理解されず変なことを言うなぁという程度にしか受け取られなかったと言っていた.
しかし,私も最近,富士登山に行ったり,登山ではないが日光に行き湖のほとりのキャンプ場にテントを張って寝袋で寝るというような体験をした時,それに通じるような感覚を得た.

そういう時どういう感覚を得るかというと,人間社会を離れて自然の中に一人いると,人間社会を離れては生きていけないのだと人間の矮小さを痛感する.
そして,人も自然の一部であり,自然に生かされていると感じ,自然のありがたさに感謝したくなり,謙虚な気持ちになる.
友人はエクスタシーという表現を用いたが,私は胎内回帰のような感覚なのではないだろうかと思う(彼もこれに同意していた).
日本人的な感覚なのかもしれないが,自然に生かされているというのは自然を母性的なものだと感じ,自然の中にいることにより,母の内に帰るという感覚を得るのではないだろうか.
これが今回私が考えた根本的な意見だ.


それに付加して少し考えたこともある.
この,自然が母性的なものという感覚は東洋的なものであり,登山や自然に触れることが胎内回帰的な感覚を呼び起こすことがこの感性に由来するのであれば西洋やアフリカ系の人は異なる現象かもしれない.
和辻哲郎が気候により人間のタイプをモンスーン型,砂漠型,牧場型に分けたことと近い考え方だ.
このように考えると,西洋の砂漠型は精神史的にも父性性が優位なもの.そして,日本(東洋)は母性性が優位.これは西洋の一神教型と東洋の多神教(アニミズム)とも関係がある.(このあたりのことは河合隼雄氏の本にも書いてあった)
アニミズムは自然そのものに神を見出すタイプであり,だからこそ日本人は(といっても今回のサンプルは私と友人だけなので一般的にどうかは良く分からないが)このように自然に触れることで胎内回帰的感覚を呼び起こされるのではないだろうか.

胎内回帰以外にも,日常よりも死が身近になることで逆に生を実感するということもあるかもしれない.
しかし,そのような感覚も胎内回帰も同時に感じるものでそこにも関係性があるのではないか.死を身近に感じることと人間の矮小さ,自然の一部としての小さな存在と感じることは決して無関係ではなく,むしろある意味で同意義なものとすら思える.
ジョージ・マロリーは「そこに山があるから」といったが,他の人はどうなのだろう.いろんな人,特に異なる文化圏の人に聞いてみたいものだ.